三木武夫について

 1)経歴

 1907年(明治40)、徳島県板野郡御所村(現・阿波市土成町)で、三木久吉・タカノの元に生まれた。遅くにできた一人っ子で、両親の愛情をうけ大切に育てられた。子供の頃の成績は目立たなかったが、人前で臆せず話し弁が立ったという。

御所村尋常高等小学校を卒業後、徳島県立商業学校、中外商業学校にて弁論部で活躍。明治大学法学部に進学し、雄弁部に所属しキャプテンを務める。約一年に及ぶ米国遊説旅行をした後、欧洲へ渡り各国情勢を見て回った。その後、四年にわたり米国に留学し、学業のほかに講演、新聞記者、教員、貿易など様々な経験を積み見聞を広めた。

1937年、明治大学法学部を卒業とほぼ同時に、衆議員選に立候補。当時最も若い30歳で初当選し、連続19回当選。議員在職は51年に及んだ。運輸相、通産相、外相、環境庁長官などを歴任し、1974年、田中角栄首相の退陣を受け、第66代内閣総理大臣に就任。1976年退陣。19871988年(昭和63)、議員在職のまま81歳で死去。国会議事堂の衆議院玄関には「衆議院名誉議員」として尾崎行雄とともに胸像が置かれた。菩提寺は土成町にある神宮寺。

2)政治家・三木武夫

三木は、自らを「議会の子」と称し、議会制民主主義に立脚した政治を大切にした。「人、信無くば立たず」を座右の銘とし、政治は国民の信頼を得なければ成立しないとの信念から、国民との対話である演説に全力を尽くした。小柄だが声は大きく良く通り、自分の言葉で語りかける演説には人を惹きつけ納得させる力があった。

派閥政治を嫌い、党の近代化をすすめるとともに、一貫して金権政治を批判し、政治浄化を訴えた姿勢から「クリーン三木」とも呼ばれる。三木内閣では政治資金規制法の強化に取り組み、政治家人生をかけた課題とした。

また、青年時代に海外を巡り世界情勢を見て政治を志したことから国際派政治家として知られた。対話による外交が世界平和への道であるという思いから、各国首脳と積極的に会見し、国際的人脈を築いた。アジア外交重視の姿勢を見せ、オイルショック危機に中東を歴訪して中東和平を説き、総理就任中には第1回先進国首脳会議(サミット)に出席し南北問題を提起、また日中国交正常化に尽力した。 

 参照:鈴木秀幸「三木武夫の修学時代」『三木武夫研究』、2011年